1万円札を拾うために5万円を支払う

友人が面倒な場所に落ちた1万円札を拾うために職人へ5万円の報酬を支払うと言っていたら、そんな勿体ないことはしない方が良いとアドバイスをしたくなると思います。

そして、そのアドバイスを聞いてくれなかったら、計算ができない人だと思うかも知れません。

しかし、これを『計算高く』行なった先人がおります。
鎌倉時代の武士、青砥左衛門(藤綱)です。

ある晩、青砥左衛門は10文銭を川へ落としてしまいます。暗くて川底が見えません。そこで左衛門は家臣に命じ、松明を50文で買ってこさせ、その灯りで10文銭を拾います。

その話を聞いた人々は40文の損をしているだろうと笑いました。

しかし、左衛門は
10文銭を探さなければ、永久に川底に沈んだまま。しかし松明を50文で買って拾うことで、拾い上げた10文は自分、そして松明を買った50文は他人に渡って世の中で流通する。すなわち合わせて60文。これこそが天下の利益なのだ。』

と周囲に教えたと言います。

また戦前の『修身』の教科書 に掲載されている女学生の日記には、
『お兄さんたちは兵隊さんとして私たちのため、お国のためにお勤めしています。私も製糸工場の女工として、お兄さんたちと同じように一生懸命がんばります。』
とあります。

当時の世相では、国家のために戦地で戦う兵隊さんは花形の職業だったと思います。

女学生は女工として一生懸命に働くことも、花形職業の兵隊さんと同じ目的をもった仕事をしていると理解していたのだと感じます。

左衛門や女学生のような先人たちは、全体の利益の大切さを理解し、社会を発展させてきました。

ただ、全体の利益を優先し過ぎたことで戦争が生じたとも考えられ、その反省から、戦後は個人の利益の方を優先してきました。

しかし、個人を優先し過ぎると全体が崩壊し、その結果、個人も崩壊します。

我々は先人に倣い、個と全体の関係性を学び直す必要があると感じます。

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